君の机の身の回りにある道具、それが、君の世界観だ

『住宅建築』2020年10月号掲載文

青焼き機を分解したことがあるかい?
それは美しくみごとな世界だった
チャップリンのモダンタイムスみたいに
軸棒と歯車に青い帯状の布があるだけだ
出てくる軸棒と歯車
その部品の数が尋常じゃない
くるくる回って感光された紙が、コトコトと出てくる
それだけのためにこんな数の丸棒を回す必要あるの?
というくらいの過剰が
どうやら20世紀的で
モダンタイムス的な
工業化社会のすがただったのかもしれない
2人で抱えるのも容易でないくらいに青焼き機はでかくて重く
工業化社会を支えた重厚長大然として事務所に鎮座した
感光紙が販売を中止して2年が過ぎようとする頃
感光紙も感光してしまって
いよいよ処分と言う時に
供養をかねて分解してみようということになった

思えば紙詰まりもよくあったけれど
発売当初の洗濯機みたいにハンドルを回せば
クチャクチャと詰まった紙が出てくれる愛いらしさがあって
コンピュータみたいに壊れたら手が施せないってことはなくて
仕組みが目に見えるから自分で対処できることがほとんどで
機械を作っている人の手垢と黒光りする額の汗に哀愁がそそる
労働者諸君、相変わらずバカか?
寅さんが裏庭越しに工場の職工に言うみたいな
深い愛と狂気の沙汰が、青焼き機の内側には広がっていた

もはや手描き依存症だ
これがないというだけで建築の楽しさは半減してしまってる
言い過ぎだというのはわかってるが、言わせてもらう
高校2年のとき、ボクは自分の進路を考えた
生まれた町は昔ながらで、機織り工場のガチャンガチャンという音の中で
近所には八百屋、駄菓子屋、床屋に下駄屋、鉄工所に車の修理屋
我が家はというと、乳母車をつくる籐職人
仕事と言ったらこうした町の大人たちが手本だった
身の回りにある仕事以外に想像力は及ばないから
所作なく家にあった百科事典をめくってみたら
ページいっぱいに手描きの建築図面が載っていた
一目惚れ、カッコいいなと父親に尋ねると、
設計士は定規をあてんでも真っ直ぐな線が引けるんや、と誇らしげに言った
そういうことならできる気がして
その思い上がりだけで人生の舵を切った

地方大学に行くと、ホルダーで手描きを習い
青焼き機で出力した
納まりを知らないからプロっぽい図面をかけずイラついた
それでも卒業設計はすべて手描きの原図で提出
知らないうちに手で描くことを愛好していたボクは
象設計集団に入ってさらに没入する
U研究室から手伝いに来られていた岡本さん
彼女のまわりに漂っているただならぬ空気
STAEDTLER (ステドラー)の3Hと4Hのとんがった鉛筆
歳をとったから雑作になってねと
2本だけになったことの照れ笑い
1日の仕事を終えて、机の上を整え、最後に鉛筆を研いで帰る
残った鉛筆をまじまじと見て、憧れはこんこんと降り積もる

水平線は遥か彼方からやってきて遥か彼方へと去っていく
象設計集団の樋口さんはいつも一本の線の大切さを若者に説いた
職人でなくたって身体と頭がはっきりとつながっている
青焼きを焼いてあの憧れた百科事典の手描き図面に近づいてゆく喜び
そこでは建築がわかってくることと
図面が上達することはパラレルだった

そうした青焼き機がもたらしてくれる周辺世界には
相応の世界観が現れてくる
手描きに向かう心構えは
憧れている建築への誠実さへとつながっている
道具が手に馴染み使い古されていくことと
建築が使いこまれて味わいを滲ませていくこともイコールだ
壊れたら直し方もわからず買い換えられていく
この時代の中で生まれる建築が
あっという間に壊され建て替えられていく風景を
目の当たりにするたびに思い知らされる

分解された青焼き機の軸棒と歯車を車に積んで
産廃処理場へ行って現金に換えた
鉄くずはあっという間に
スクラップされた車に混じって山と積まれた
いずれ建築はただの消耗品か粗大ゴミになるのだろうか

一枚しかない原図があることによって生まれる建築家の責任と自由
原図を手放した時から、建築家の自由は奪われ始めている
あっという間に建築家の職能そのものが奪われてしまう
いつも結末はあっけなくなすすべもない
道具と世界観はダイレクトにつながっているのだ
だから日頃手にする道具はあなどれないのよ
君の机の身の回りにある道具、それが、君の世界観だ

文とスケッチ・羽渕雅己