小説のなかのもうひとつの空間
『住宅建築』 2009年10月号 掲載文
BOOKREVIEW 『洪水はわが魂に及び/大江健三郎』
(この小説の舞台は、大江健三郎の住む成城の、野川への段丘に沿った建物が元となっている。その建物が、吉阪隆正+U研究室設計の樋口邸であることはあまり知られていない。)
1 鳥の声
「鶯が午後から夕方にかけて鳴き出しますが、山の鳥では、アカハヤやシロハヤやヤドリギ、ルリビタキなども裏に来ています。ここは野川から崖線にかけて鳥の種類が年間103種類くらい見られます。神宮の森が57~58種類ですから、いかに野鳥が多いかが分かります。野鳥が多いということは植生が豊かだということです。」
今年の春、成城にある樋口邸(1968年に竣工)を訪れた。居間の席に着くや否や、樹々に囲まれた豊かな周辺環境や野鳥の話題をとても鮮やかに建主の樋口さんは話してくれた。私は軽い興奮を覚えた。部屋からは、まだ若々しいあざやかな新緑が横長の窓一杯を覆い尽くすほどで、とてもきれいだった。
大江健三郎の小説『洪水はわが魂に及び』は、彼の住む成城の、段丘に沿った建物が舞台となっている。小説の舞台となった場所を訪れることは、作家が抱いたイマジネーションを追想し、小説を生み出した原風景を探るような体験である。
大江健三郎の小説は、彼が生涯を通じて関わってきた様々の人々、場所、文学や音楽などといった対象との関係性から生まれてきたものがとても多い。1964年、大江29歳の時に発表された、知的障害の子どもをもった父親の葛藤から受容にいたるまでを描いた小説『個人的な体験』は、脳に障害をもって生まれた長男光さん誕生の翌年のことだった。
『洪水はわが魂に及び』は1973年、大江38歳の時に発表された長編小説である。『個人的な体験』から続く知的障害の息子と核避難所跡の建物に自閉する父が主人公として登場する。父大木勇魚の知恵遅れの息子ジンは、50種類以上の野鳥の声を識別することができる。その度に「クロツグミ、ですよ、ルリビタキ、ですよ」と野鳥の名前を告げる。この小説を通じてもっとも聖性をもった存在として、ジンは清らかで静ひつなイメージをつくっている。今春、樋口邸を訪れた時に彼が最初に野鳥の話しから始められた時に、軽い興奮を覚えたのは、この幼児ジンのことが頭に浮かんだからだった。
2 ノアの箱舟
樋口邸は1967年から途中中断もあって、約2年に渡って工事が行われていた。当時大江32歳、光さん4歳。彼は日課のように、10時頃から午後3時くらいまで、必ず光さんを連れて建設現場に来ていたと樋口さんは話してくれた。登山手帳を持って、メモを取りながら建物周辺をよく眺めていたそうだ。風景や環境のスケッチが創作の原点であることは小説も建築も同じである。小説が発表されるのが1973年だから、6年もの時間が費やされていることになるが。
『洪水はわが魂に及び』は、核避難所のある建物を舞台にして進行していく。「樹木の魂」「鯨の魂」と交感するという大木勇魚は、東京崩壊という終末世界から逃れるために大海への船出を目論む「自由航海団」と名のる若者達と出会い、ともに核避難所のある建物をアジトとして立て籠ることになる。航海団内部のリンチによる殺人行為などが航海団メンバーによるたれ込みによって露呈すると、建物は機動隊に包囲され、放弾や放水が繰り返されていく。船出を目論む自由航海団ひとりひとりは現代のノアを自認し、立て籠る建物はノアの箱舟さながらだ。
小説の冒頭から2頁に渡って、小説の舞台となる建物が事細かに、そして実際の建物に忠実に描き出されている。それは『ノアの箱舟(旧約聖書・創世記)』の一節を思わせる神話的空間への導入となっている。
「見本の核避難所が、武蔵野台地の西端に作られた。住宅地の高台から、アシ、ススキはいうにおよばず、ブタクサ、セイタカアワダチソウの繁茂する湿地帯への、80°勾配の急斜面に、すなわちけわしい崖の根方を掘り崩して、三メートル×六メートルの、鉄筋コンクリートによる地下壕が埋込まれた。しかし企業化は成功せず、この国でただひとつ完成された民間用核避難所は、そのまま放置されていた。五年後、この核避難所をつくった建築会社が、当の地下壕をそのまま土台に、三階の銅鐸のような建物を建てた。一階中央は地下壕とおなじ18平方メートルの矩形をなして、その後部は斜面の基底部にくいこんでいる。向って左側に、台所と便所がつけくわえられている。便所の前、小さい玄関の脇から螺旋階段が、三層の部屋をむすんでいる。(中略)地上の建物についての建築家の構想にいささかも反対しなかったが、地下壕については最初の設計へ一箇所の改変を要求した。鉄梯子の真下に、30センチ四方の炉のような穴をうがって、コンクリート床のあいだから、地面を露出させたのだ。(中略)絶対に反・機能的なこの四角の穴は、建物の住人のための、瞑想用の足場としてつくられたものである。かれの瞑想とは、地上に偏在する樹木と、遠方の海上にある鯨たちと交感することだった。」
3 樹木の魂
冒頭で詳細に建物を描き出したわりに、それ以降は内部空間に関してさほどイマジネーションは感じられない。むしろ建物を含む多摩段丘の環境全体へと関心は向かっていく。
設計途中に建築家吉阪隆正がしてくれた周辺環境に関する印象的な話を、樋口さんは今も覚えている。「段丘には人の住んだ跡がある。こういう所には木の親分がいるんです。いい親分がいるところはいい環境になる。だんだん設計をやっていると、家は木の形になるのかもね。」今から40年以上前の話だから、こうして環境から建築を考える人は希有だったと話してくれた。そして小説の中には、同じようなくだりが散在している。
「樹木の魂」「鯨の魂」と交感している勇魚に共感を覚えた自由航海団のリーダー喬木は、「葉が落ちた小枝が空を帚ではいているように見える大きい木」を指さしながら言う。
「ケヤキか。おれの地方には、あの木は少ない。(中略)おれの地方では、あれをキーというからね。木の中の木、特別の「木」だからキーというんだと、子供の時分のおれは思っていたよ。」
勇魚は喬木に興味をひかれていく。
「いま青年のいったキーという言葉を冠しつつ、曇り空へこまやかに確実な細枝を伸ばしているケヤキの一本一本を眺めると、いかにもそれらはこのましい樹木のなかのもっともこのましい真の樹木に感じられる。」
次第に、勇魚は「自由航海団」の若者達に内面を開いていく。
「木にならって生きるのがいっとう自然だからね、それで樹木に同化するつもりで生活していた。樹木に同化したような生活は「次の者」の来るのにむけて、ただ生き延びるだけの人間にもっとも適当だから・・・」
「樹木の魂」はこの地上で最良のものとして描かれている。成城の土地は、国分寺崖線という段丘にある。段丘には80箇所以上の湧水があり、崖線斜面地の地層によってもたらされる水辺空間は、ハンノキをはじめとする湿生植物が多様で、いろいろな生き物の住処ともなっている。こうした豊かな環境のスケッチが、登場人物への感情移入を手助けしてくれている。
4 鯨の木
大江健三郎ははじめて活字になった幼少の頃の詩を、自らの著作『私という小説家の作り方』(1998年・新潮社)の冒頭で紹介している。
雨のしずくに
景色が映っている
しずくのなかに
別の世界がある
ここにある、ふたつの世界を確かに発見し、その時から半世紀にも渡ってしずくのなかにある別の世界を小説として書き続けることになったと書いている。このしずくとは雨に濡れて匂い立つ柿の木の葉にたまっているしずくのことなのだが、このしずくのなかにある別の世界こそが物語であり、この時から物語は「樹木の魂」によって喚起されていた。
「自由航海団」は機動隊に包囲され、仲間と幼児ジンを解放した勇魚は、ひとり地下壕に降りる。すべては宙ぶらりんのまま、そのむこうには無が露出している。洪水はわが魂にまで及び、「コノ大イナル水ハ人類ヲ滅亡サセ、今ヤ巨鯨ノ大群ガ地上ノ僚友,樹木群ノアイダヲ遊泳シテイルノデハナイカ?」と「樹木の魂」「鯨の魂」にむけて語りかける壮大なラストシーンを大江は描き出している。
この印象を、当時吉阪隆正主宰のU研究室で設計を担当していた樋口裕康さんに尋ねると、こんな言葉が返ってきた。「彼はずっと現場途中を見ている。出来上がったものの形じゃなくて、出来上がるまでの全体像を見ている。建物の前に大きなウロのあるドングリの木があった、その樹だと思う。それからあの段丘からは、ものすごい空が広く見えたの、だから海に見立てることは可能だろう。」
創作とは慣れ切った日常感覚と新鮮なイマジネーションの結合だ。大江は段丘に立ち、同じ風景を見出す。そこにあるのはしずくのなかにある別の世界、もうひとつの空間である。
「勇魚は、かれの前方に現に見えているのとはちがう、もうひとつの空間を見出していたのである。それは、見渡すかぎりの草原にむかって立つ者に、あるいは海にむかって立つ者にのみ経験しうるような広大な空間であって、都市に定住して以来かれはそれを見うしなってきたのであったが、幻として再現したその空間をいっぱいに埋めて、ただひとかぶの樹木による巨きい森が、「鯨の木」があらわれた。」
文・スケッチ 羽渕雅己