水の原理から生まれるカタチⅡ
『住宅建築』2021年2月号掲載文
「水」と「公共性」の親和②
川と〈公共性〉の関係は合わせ鏡のように、現代の私たちに問いかけてくる。近代河川の問題は、川が特定の目的にのみ使われ、川沿いの人々との関係を持たなくなってしまったことにあるだろう。つまり〈公共性〉を育んできた〈私たち〉の川が失われている。
有史以来、川沿いから文化文明を築き、川は私たち人間の生活と密接につながっていた。社会学者の荒川康と鳥越皓之は、川の役割を次の8つに整理している。①飲用、②洗い、③水運、④農工、⑤漁撈、⑥防災、⑦遊び、⑧景観。逆説的に、これらの役割を持つものが川だとしたら「日本には川がない」とさえ言える。
琵琶湖のほとりで生まれ育った幼少期、縮緬の機織りの音が町のあちこちから聞こえていた。町の音には活気が漲っていた。湧水が豊富で、家のそばを流れる米川には藻がたなびいて小魚もたくさんいた。大雪には雪をかいて川に捨てに行った。米川は、秀吉がつくった格子状の町割りの間を裏に表に自由に流れ、通りの至るところで顔を出した。川に向かって欄干を出す家、生活のための簡易な橋、川面に近づく階段、当たり前のように川は暮らしの中を流れていた。やがて、こうしたところは琵琶湖周辺の町に見られる特有の風景であることを知った。
滋賀県の湖西地方、高島町にある針江集落は「生水の郷」として親しまれている。各家々の敷地に引き込まれた水路は外カバタ、内カバタと呼ばれる台所につながって、水路は同時に各家庭を結びつけ、共有資源として利用される。近隣を気づかって汚物は流さず、汚さず、水を思いやる生活が営まれる。またコイを共有して生かすことで残飯を食べてくれるにとどまらず、川の水質を守ろうとする指標をわかりやすく可視化している。結果的にそれは琵琶湖を、さらに下流の人々を思いやることにつながっている。
カバタと呼ばれる台所は各家共通にあるけれど、そのデザインは家毎に工夫して自由につくられる。システムは同じで、カタチは自由、コイは各家庭のカバタを自由にボーダレスに行き交っているのがまた可笑しい。この一連の水をめぐるカバタシステムが、美しい景観保全のためではなく、湧水を利用した生活の工夫から生まれた結果として美しいということが、この「生水の郷」が他の事例に抜きん出ている所以である。
針江のカバタとの出会いは〈デザインの原形〉とでも言える原則を教わるような経験だった。〈人の行為に合わせるが故に自然の理から外れていってしまう〉のが現代社会の法則だとすれば、〈自然の理に合わせて人の行為がそれにならう〉のが本来の合理ではないか。もっと言えばカバタこそは、〈ピースフルな公共性〉と〈ボーダレスな世界モデル〉を持ちあわせたこれからのデザインである、という感覚が私たちの建築を考えるうえで相性がいい。
わかりやすい明確な目標も見えない現代社会において「建築に何ができるのか?」と自問してみると、そもそも大切にすべきものは何で、そのために共有すべきものは何か、ということを目に見えるカタチでとにかく社会に提示してみることではないかと思っている。
文・スケッチ 羽渕雅己